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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [8]




 床に正座し、寄り添うようにベッドに身を寄せていたユンミは、いつの間にか立ち上がっている。そうして、拳を握り締めながら美鶴に詰め寄る。
「こうなったのも全部アンタのせいでしょう! 慎ちゃんに何かあったら責任取りなさいよっ!」
「責任って」
「何よっ! この期に及んで逃げるつもりっ!」
「逃げるだなんて、そんな」
「じゃあ何なのよ、その態度はっ!」
「だって、あの、霞流さんに何かあったらって、どういう事ですか?」
「何よ、慎ちゃんがこんな事になんてるのよっ!」
「だからっ これ以上に何があるって言うんですかっ!」
「死んじゃったらって事よっ!」
 は、はい?
「そんな事、言わせないでよっ!」
 ユンミは拳を振り回して床に言葉を吐きかける。
 は? 霞流さんが、死ぬ?
 意味が理解できない。
 ベッドへ視線を流す。血の染みた包帯をグルグルに巻かれた頭。
 死ぬ? なんて非現実的な言葉。あり得ない。
 だが、あり得ないと言うのなら、包帯を頭に巻いてベッドに横たわる霞流の姿というのもまた、あり得ない現実なのではないか? それこそが、非現実的なのではないか?
 死ぬ? 死ぬって何? 死ぬって、霞流さんが死ぬって事?
 死という文字がグルグルと頭の中を飛び交い、呆然とした。ポカンと口を半開きにして、目を丸くしたまま馬鹿みたいにユンミを見上げる。
「まさか」
「まさか? こんな状況を目の当たりにして、よくもそんな言葉が吐けるわね?」
 死ぬ。霞流さんが死ぬ。
「アンタ、ホントは最初っから慎ちゃんを殺すつもりだったんじゃないのっ」
 ユンミは両手で美鶴の襟首を掴み、ものすごい力で引き摺り立たせる。
「最初っからこうするつもりだったんでしょうっ!」
「ち、違います。どうして私が?」
 苦しくて声が擦れる。ものすごい力だ。身体は男のままということだろうか? 今どきコレ系の人はいろいろ身体を(いじく)るのが当然のことだと思っていたが。
「私はそんなつもりは。ユンミさんに後を追いかければって言われて、だから私は」
「何? アタシのせいだって言うつもり?」
「ちっ 違います。ただ霞流さんが気になったから追いかけただけで、特に目的があったワケでは。そんな、突き飛ばすつもりなんて」
「信じられないわ。だいたいこんな寒い中を目的も無く店の外にまで追いかけたりなんて、フツウはしないでしょう? そんなの信じられないわ」
「でも本当で」
「何をするつもりでもなかったけど、つい追いかけてしまった? 冗談じゃないわ。そんな嘘が通用するとでも思っているの?」
「本当なんです」
 追い込むようなユンミの言葉に、美鶴の頭は混乱する。順序立てて説明しようにも適切な言葉が浮かばない。
 焦慮だけが膨らむ。
 本当だ。轟音の響く店内を涼風のように横切って店の外へ出て行った霞流。彼を追いかけるように店を出たという行動に、特に理由はない。ただ、店の中では到底彼と接触する機会は訪れないだろうと思って、だから外へ出て彼が一人になれば何かチャンスが生まれるかもと、そんな安易な気持ちで追いかけた。
「本当に私は」
「じゃあこのザマは何っ?」
 右手で背後のベッドを指差す。
「どうしてこうなったのよ?」
「だから、それは霞流さんが強引に抱きついてきたから」
「自惚れてんじゃないわよっ!」
 ユンミは一蹴する。
「慎ちゃんがアンタみたいな小娘に抱きついたりなんてするワケないでしょうっ! しかも強引にですって? 冗談じゃないわっ!」
 ものすごい剣幕。我を見失っている。
「慎ちゃんはねぇ、女が嫌いなのよ。アンタ達みたいな頭の悪い、自己中心的で自分の言っている事がすべて正しくて、自分は正義で悪い事なんて何もしていないと思っているような傲慢な女が大っ嫌いなのよ」
 知ってる。
「慎ちゃんはねぇ、アタシ達みたいな、物事に(とら)われない、男とか女とかって枠に(こだわ)らない、自由で穏やかな世界の住人が好きなの。慎ちゃんだってそういう人間なのよ。だからねぇ、慎ちゃんがアンタみたいな女に手なんて出すワケ無いのよっ!」
 自由で、穏やか。
「今夜店に来たの、本当はこれが目的だったんでしょう?」
「え?」
「殺すつもりで来たんでしょう?」
「そんなっ」
「殺すつもりであの店に来て、機会を狙ってたんでしょうっ」
「まさかっ どうして私がそんな事をするんですか?」
「決まってるわよ。フられた腹いせよっ!」
 力いっぱい締め上げる。美鶴は息苦しさに口をパクパクと動かす。両手でユンミの手首を握り締めるが、びくともしない。逆に美鶴の手の方が酸欠で弱っていく。
「慎ちゃんにフられて、逆恨みして殺そうとしたのよ。そうに決まってるわ。女ってのはいつでもそうよ。自分の思い通りにいかないとすぐに周囲を責めるんだからっ!」
 思い通りにいかないと周囲を責める。
 胸に重く沈み込む言葉。
 確かにそうかもしれない。
「だからアンタは慎ちゃんを殺そうとした。そうだったのね。そうだとわかっていればわざわざ店になんて入れなかったのにっ」
 心底後悔したような声をあげる。
「可愛そうだなんて同情心を起こしたのが間違いだったわ。やっぱり女は魔物よ。化け物よ」
 反論もしなくなった美鶴に畳み掛ける。
「アンタみたいな女狐こそ死んでしまえばいいのよっ!」
「く、苦しい」
「うるさいっ!」
 ユンミがさらに強く締め上げようとした時だった。
「お前もうるさい」
 小さいが、低くても聞き取りやすい声だった。ユンミの振り返る先で、霞流が薄っすらと瞳を開けている。
「慎ちゃんっ」
 美鶴を放り投げ、ベッドへ駆け寄る。
「慎ちゃん、大丈夫?」
「頭が、痛い」
 言いながらゆるゆると手を後頭部へまわそうとするが、途中で眉をしかめて止める。
「痛い」
「大丈夫?」
「これが大丈夫に見えるか?」
「やっぱり救急車を呼んだ方が」
 美鶴は荒れる呼吸を整えようと、片手をベッドに付きながら身を支える。そんな姿に、霞流は冷たい一瞥を投げる。
「騒動になるのは御免だ」
「でも」
「アンタもしつこいわね」
 ユンミが遮る。







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